以下は平成24年に東北大学整形外科の同門会雑誌に投稿した内容です。
一部を変更しましたが、できるだけそのままの状態で載せました。
私の避難記録
はじめに
私は平成6年に東北大学整形外科に入局し、平成19年4月、福島県南相馬市小高区に“もんま整形外科医院”を開業しました。
現在44歳で小学5年、3年の男児2人と幼稚園年中女児の3人の子供がおります。
医業は順調に経緯し、昨年の1月に医院の裏に新居を建てました。
子供たちにそれぞれ個室を与え、今後は日々の診療を黙々とこなし残りの人生を過ごすつもりでいましたが、原発事故が発生して生活が一変しました。
3月11日、大地震とそれに伴う大津波が発生しましたが、当院は自宅を含めてそれらによる被害はたいしたことがなく、震災当初は数日後から診療再開を予定していました。
しかし当院は例の原子力発電所から約16kmの距離のため、未だに立ち入り禁止で避難生活中です。
私たち家族は3月14日から本格的な避難をはじめ、山形方面や関東地区に滞在し4月中旬に仙台市太白区富沢に移住しました。
私は4月20日から南相馬市原町区にあるW病院をお手伝いしています。
仙台市に居ることを知った同門の先輩や後輩、同期生から仕事の勧誘や提案がいくつかありました。
しかし地元の動向が気になることと、同病院とは親戚関係にあり公私ともども古い付き合いがあることから、大変ありがたいことながらもそれらの勧誘はすべて断り当面はW病院をお手伝いすることにしました。
家族と一緒にいることを最優先に考え仙台からは診療日毎に通勤し、毎日通勤するのは体力的にかなりきついので月、水、金曜日の週に3回で勤務しています。
携帯電話のスケジュールに箇条書きにしたものを元にいろいろなことを思い出しながら3月11日の震災日から生活が一段落した4月20日までの私たち一家の避難経緯を以下に記しました。
3月11日(金曜日) 14時46分 地震発生
これまでに経験したことがない揺れとその長さに驚きつつも患者さんへの被害はなく一安心。
来院中だった患者さん達を見送り、被災状況を職員達と待合室のテレビでみていると周辺から津波がきていると噂が入った。
そのときはデマだろうと思っていたが、近所の人たちが避難している姿をみて私たちも避難を開始する。
妻は小学校に通う息子2人を迎えに行き、私は当時4歳の娘を連れて避難所のひとつに指定された南相馬市小高区役所に移動した。
そこで妻たちと合流したが施設内は停電していて被災状況が全くわからないままだった。
しばらく困惑していると、ずぶ濡れになった中学生らしき少年が毛布で被われてやってきた。
津波が区役所から数100mしか離れていない国道6号線まで達していた事実を物語っていた。
避難所にいても何も情報が得られず状況の改善が見込めないため、電気が無事な自宅に居たほうが安全と考え、途中のコンビニで買い物をして1時間ほどで帰宅した。
自宅でテレビをみていると“仙台市若林区荒浜で数百人の遺体が発見”など衝撃的な報道を見て津波被害のひどさに唖然としながら過ごしていた。
21時ごろに10kmほど同市内の北方にある原町区の両親とようやく固定電話で連絡がと
れ、両親宅のライフラインはすべて保たれていることがわかった。
自宅が断水になっていたことと大津波警報が出ていたため私の生まれ育った家でもある両親宅に移動する。
3月12日(土曜日) 1号機爆発
昼近くに小高区の自宅に衣類を取りに妻と戻り、近所の人と立ち話をして断水していた水が戻りそうだったので早ければこの日の夜には帰れそうな気がした。
その後は両親宅で震災報道をみていた。
津波被害の凄まじさに驚愕していると東京電力福島第一原子力発電所についての報道がちらちらと入る。
何やら電源喪失云々を言っていたが直に落ち着くだろうと当時は楽観視していた。
しかし次第に報道の頻度が多くなり午後3時30分過ぎに1号機が爆発したところをテレビの生中継で目撃した。
それから間もなく市内の防災放送で原発が爆発したと通知があったがすぐにデマだと訂正された。
しかし1時間後位にあらためて爆発が本当であり、できる限り屋外に出ないように指示が出された。
政府から発表された“原発から20km圏内の地域に避難指示”の報道を知りそのまま両親宅に当面は居るつもりでいた。
このころから震災後たまには通じていた携帯電話が市内以外にはほとんど不通になり、父のパソコンはインターネット通信が不能になった。
3月13日(日曜日) 困惑
早朝から震災報道をみていた。
原発事故による報道は例の “直ちに影響は無い” の一点張りだったが、それを信じてまだ遠方への避難は全く考えていなかった。
市内どうしなら連絡はほぼ正常にとれていたが、市外ましてや県外にいる親戚などとは依然として不通状態がつづいていた。
3月14日(月曜日) 3号機爆発。そして山形へ
衣類を取りに午前11頃に再度小高区の自宅に戻った。
同じく小高区内からW病院に避難していた叔母さんを途中で同乗させ小高方面に向かう。
20km境界線では主要な道路上に警官が配置され警備されていたため地元の人しか知らないであろう裏道から入る。
午後12時30分頃にW病院に叔母を下車させるために立ち寄ったら玄関が閉鎖されていた。
何事かとおもったが11時30分頃に今度は3号機が爆発したことを知る。
そのころから街の雰囲気が何か変わったような気がした。
人通りがほとんど途絶え、異様な静けさを保ち始めていた。
午後4時頃に車で買い物に出かけたがスーパーはもちろんコンビニもすべて閉まっていた。
すれ違う一般の車はほとんどなく、ときどき防御服を着た大勢の警官らしき人達が乗車した護送車やパトカーを見かけたぐらいだった。
想像がつかないとんでもないことになっているような気がしながらも携帯は通じず、インターネットもつながらず情報はテレビとラジオだけで、官房長官の直ちに影響は無いとする旨の報道を信じてまだ遠くに避難するほどの深刻さではないと誤解していたことは後に知ることになる。
夕方5時半頃同じく小高区内から避難していた叔父(一昨年までW病院の事務長をしていた)がW病院から戻ってきた。
とても深刻な表情で眼には涙を溜め“もうダメらしい”とひとことつぶやいた。
叔父は何かを確信したようだった。
その様子をみて遠くに避難することを決意した。
午後6時半頃に荷物を車に慌ただしく詰め込み、夕食も済ませないまま家族5人で原町を後にする。
両親たちはもう少し様子をみるつもりだったようだが、数時間後に親戚の車で避難を開始した。
行き先は海沿いに面した地域を避けると福島市・米沢方面に限られ山形を目指すことにした。
まだ避難民による渋滞は始まっておらず、滞ることなく米沢の峠を過ぎようとしていた辺りから急に携帯電話が通じるようになった。
妻が仙台市八木山にある実家と連絡をとり、旅館を何件か探してもらいこの日は上山市の月岡ホテルに滞在することにした。
上山市内のコンビニで食材などを買い宿に入る。
山形のコンビニも品薄ではあったが南相馬市の閉店状態よりははるかにましで、オニギリやお惣菜を中心に食料を購入した。
ホテルは重油が不足していたため暖房が使えず、浴室はシャワーが使えなかったが泊まらせてもらうだけで有難かったので気にはならなかった。
携帯がほぼ正常に通信可能になったためかあちこちから連絡が入る。
5年前まで勤めていた仙台市内にあるM病院のナースからも連絡があり、無事であることを当時同院の部長先生にも伝えるよう伝言した。
3月15日(火曜日) 銀山温泉へ移動
ホテルから連泊はできないと言われたため、より北の方面を目指して宿を出た。
国道13号線を北進していたが、どこのガソリンスタンドも数キロにおよぶ渋滞をなしていた。
携帯の送受信歴を調べて、この日は比較的近くの銀山温泉“銀山荘”を目指すことにし宿泊の予約を入れると宿泊は構わないがガソリンが大丈夫かと訊かれた。
給油メーターから推察して60~70km程度は走れると考え宿泊することにした。
午後3時頃に到着したが温泉街には宿泊客らしき人の姿はみかけなかった。
とにかくガソリン不足が深刻で従業員すら出勤できない状態とのこと。
ここも連泊はできないため翌日からの宿泊先を決めるため夕方に同温泉街の他の旅館探しを始めた。
2件目に“古山閣”という旅館を訪ねると経営者である旦那さんが受付にいて交渉する。
従業員がほとんどおらず十分なサービスはできないがそれでもよければと言われた。
好みの宿を選択する余裕などないためすぐに宿泊することを決意し名刺を渡して元の宿に戻る。
3月16日(水曜日) 古山閣に移動
この日は朝からかなり寒く、天気予報ではこの地域は大雪になると予報されていた。
銀山荘でチェックアウトを済ませ、しばらく同旅館の支配人と話をした後に古山閣に移動。
数10mほどしか離れておらずすぐに到着し、女将さんが出迎えてくれ挨拶を済ます。
ここも従業員がガソリン不足でほとんど通勤できず、客は我々だけだった。
仲居さんは1人しかいなかったが丁寧な応対を受け、女将さんにコタツをだしてもらい一休み。
衣類は数日分しか持っていなかったため風呂場で洗濯をした。
雪は次第に本降りになり、みるみるうちに積雪量が増えていき日暮前には銀世界になった。
とにかくガソリンの確保をなんとかしなければ移動のしようがないため数日はこのままいさせてもらおうと考え女将さんと相談し了解していただく。
3月17日(木曜日) 古山閣2泊目
不安のためかこのころから1日2~3時間しか眠れなくなった。
別に何をするわけでもなく震災報道をテレビでみながら過ごす。
次々と原発の爆発が連鎖し事態は深刻になる一方で当分、あるいは一生家には戻れないことを覚悟し始めた。
3月18日(金曜日) 古山閣3泊目
一向にガソリン不足が改善しそうになく自家用車以外の交通手段を検討する。
バスや空港を利用して親戚が多い関東方面への移動を考える。
埼玉県川口市にいる姉や神奈川県逗子市にいる叔母から連絡があり、とりあえず羽田空港を目指すことにした。
震災後の混乱の中で当然ながら飛行機の予約はできなかったため、翌日山形空港に直接行き搭乗できるまで待つことを覚悟した。
3月19日(土曜日) 羽田へ
残りのガソリンを心配して車内のエアコンを切り、加減速に注意しながら雪道の中を移動する。
11時頃に山形空港に到着して搭乗手続きの列に並ぶ。
車は空港に置いたままにしたが幸い無料なので助かった。
空港は大勢の乗客で賑わっていたが、予想に反してsmoothに12時ちょっと過ぎ出発のチケットがとれた。
慌ただしく飛行機内に移り一路羽田へ。
子供たちの生まれて初めての飛行機体験が避難という状況で生じたことが切なかった。
午後1時頃、羽田空港に到着して出迎えにきてくれた義兄と面会、食事を済ませ川口市へ移動。
一人で暮らしている義兄の母の家にお世話になる。
3月20日(日曜日) 川口2泊目
衣類を手に入れるため川口駅前のそごうデパートに買い物に出かけ、ユニクロで5人分の数日分の衣類を購入。
関東地区はガソリンスタンドが混雑していたぐらいでほぼ日常の生活を過ごしているようだった。
携帯電話の電池消耗が早くなっていたため途中の携帯ショップで電池を交換し、長男には新たに携帯電話を買い与えた。
その後逗子市の叔母と連絡をとり、その叔母の隣人が所有する物件を避難先として無償で貸してくれるというので見に行く約束をする。
3月21日(月曜日) 逗子、金沢文庫へ
電車を乗り継ぎ正午頃に逗子駅に到着。
叔母と面会し昼食を摂り叔母の自宅に向かった。
隣人のSさんと会い金沢文庫の空き家をみさせてもらう。
空き家といっても2階建ての一軒家で、年に数回は使うらしく電化製品や家具などはおおよそ整っていた。
寝具と日用雑貨品があればすぐにでも生活することができる状態で、また近くには小学校があり子供の編入のことも考えしばらくここに居させてもらうことにした。
Sさんがさっそく掃除の手配をしてくれて3月27日から住まわせてもらうことにして夕方川口市に戻る。
行き先が決まったことと、親戚とはいえよその家に長く滞在することは気を使うため2日後に横浜に移動することを決めた。
27日までの数日間は横浜市に住む妹の夫が手配してくれた金沢文庫の家から近いテクノタワーホテルというところに滞在することにした。
3月22日(火曜日) I先生と面会
姉から昨年の正月に会った時に聞いていた昭和58年入局のI先生が開業している川口駅近くのビルに向かう。
I先生とは入局して大学病院にいた平成6年以来の対面だった。
医局の席が背面越しに隣接していたこともあり、また親しみやすい先生だったので臆することなく話ができた。
午後の診療開始直前に伺ったため長居はできなかったが、いろいろと気をつかってもらい帰りの際には見舞金までいただき、同門のありがたさを痛感した。
3月23日(水曜日) 横浜市のテクノタワーホテルに移動
家族5人で京浜東北線、京浜急行、タクシーと乗り継ぎ午後2時頃にホテルに到着。
4日分の宿泊代を払い2つの部屋を使用。
ここは海沿いの工業地帯にあるホテルで、周辺は工場ばかりでデパートやスーパーはそばを通るモノレールで数駅移動しないとなかったが、平日ということもあり利用客はあまりおらず落ち着けた
外出する元気がなかったので夕食はホテル内にある鉄板焼きの店で摂る。
味には満足しても心はおちつかない。
3月24日(木曜日) テクノタワーホテル2泊目
モノレールで2駅ほど離れたイオン金沢シーサイド店に布団を買いに行く。
当時は入学前の準備のために一人暮らし用の家財道具が結構揃っていたので5人分を難なく購入できたが配送に時間がかかるとのこと。
3月25日(金曜日) テクノタワーホテル3泊目
早朝から4歳の娘が嘔吐を繰り返す。
窓から横浜市立大学付属病院がみえていたのでそこを受診させた。
本来は予約制だが事情を説明し診療してもらう。
感染性胃腸炎と診断され、対症療法ですみやかに症状は改善し当日に食事ができるようになりほっとした。
子供たちもめまぐるしい日々を過ごしていたためか免疫力が低下していたのだろう。
3月26日(土曜日) ホテル4泊目
まだ娘が本調子ではなかったためこの日は特に何もせず休養して過ごす。
3月27日(日曜日) 金沢文庫への移住を2日延期 ホテル5泊目
この日に布団が金沢文庫の家に配送される予定だったが、ホテルの居心地がよかったことと、あらゆる日用品を揃えるというのはかなり大変なことを実感し、荷物を受け取るだけにして文庫宅での生活開始を2日後に延期した。
3月29日(火曜日) 金沢文庫に移動
タクシーに乗り15分ぐらいで文庫宅に到着。
荷物を片付け、布団を敷いたり部屋やお風呂を掃除したり暮らすための準備をした。
夕食はお弁当屋さんで購入。
3月30日(水曜日) 文庫宅2日目
震災以降インターネットを使っていなかったためPC用のメール確認ができないままだった。
インターネットを使える環境を整えるため金沢八景駅近くにあるダイエー内の電器屋を散策。
データ通信端末とノートパソコンのセットを契約し店に設定をお任せし翌日受け取ることにした。
3月31日(木曜日) 文庫宅3日目
午後にPCの準備が整いインターネットに繋いだら100件以上のメールが届いていた。
同期の先生、先輩や後輩などからの連絡に目を通し、その内容とようやく社会と連絡ができたことに感動しながら震災後の経緯と現況を作成し医局に報告した。
4月1日(金曜日) 新学期
今日から4月、子供たちの学校のことが本格的に気になり始める。
このままこの家にしばらくいるかどうするか悩む。
仙台市では水道やガスなどのライフラインの復旧がほぼ完了したらしく、また妻の実家が八木山にあることから仙台市への移転を考慮する。
4月2日(土曜日) お花見
すぐ近くにある称名寺という寺院でお花見をやっていることを知り、気分転換に家族で正午近くに出かけた。
この寺院は13世紀半ばに北条実時により建てられた真言律宗のお寺で面積は約90000平方メートルに及ぶらしい。
この日は非常に暖かく長袖では汗ばむくらいの陽気だった。
すでに関東地区はほとんど通常の生活に戻っていたようだったが、会場では震災の募金活動をしていてあらためて被災したことを自覚した。
4月3日(日曜日) 仙台に行こう
仕事をしていないと曜日感覚が鈍くなり、社会から疎外されている感じがしていた。
とりあえずは仙台で暮らすことを決意し移住先の物件をネットで調べる。
4月4日(月曜日)
飛行機のチケットをインターネットから探索する。
仙台空港が再開していたが本数が限られ予約済みばかりで、また車が置きっぱなしだったこともあり4月9日の山形空港行きを予約した。
4月5日(火曜日) アンパンマン
震災以前から娘が行きたがっていた横浜市みなとみらいにあるアンパンマンミュージアムに一家で行った。
電車を乗り継ぎみなとみらいに到着。
学会でよく利用されるパシフィコ横浜が近い。
そういえば5月に開催される日本整形外科学会の会場だなと思い、震災前に同会場に隣接するインターコンチネンタルホテルを予約していたことを思い出す。
帰り際に施設内でパンを購入した。
1個300円したが記念にと思い好きなキャラクターを選んで10個ぐらい買った。
私はカレーパンマンとロールパンナちゃんを食べたが結構おいしかった。
4月6日(水曜日) 仕事
W病院の理事長が話をしたがっていると叔父から連絡が入り、理事長に電話をかけた。
4月12日から診療を再開するので手伝ってほしいとの内容。
W病院はほとんどの医師がいなくなり、翌週から理事長一人でとりあえずは再開することにしたとのこと。
私自身も社会復帰を考えていたので協力する旨を伝え、近いうちに面会に行くことを返答した。
両親を含め、この頃には原町から遠方へ避難をしていた人たちの半分ぐらいはもどっていて、医療に対する需要は高まりつつあったようだった。
高齢者は特に避難生活が非常に疲労するようで10日前後が避難生活の限界のようだ。
4月7日(木曜日) 姪っ子
横浜市戸塚区に住む妹宅を訪問した。
妹には一昨年の11月に生まれたばかりの女の子がいるがまだ面会したことがなかったこともありみんなで訪問。
4月9日(土曜日) 再び山形に、そして仙台へ
午前9時過ぎに文庫宅を出発し羽田空港に向かった。
京浜急行は空港行きの直接便があり便利だった。
正午前に羽田を発ち午後1時頃に山形空港に降り立つ。
3週間放置していた車が始動するか心配だったが無事でほっとした。
まずはガソリンスタンドに行き給油を済ます。
この頃にはガソリンスタンドは待つことなく利用できるようになっていた。
国道48号線経由で仙台市に移動し予約していた秋保温泉“ホテル水戸屋”に宿泊。
夕食中にかなり大きな余震があった。
ホテル内は全国から集まったガス局の人たちが大勢いて宿泊所として使用していたようだった。
4月10日(日曜日) 住居探し
妻の実家のある八木山へ行く。
横浜に居たときからネットでいくつか得ていた情報を基に仙台市内で住むところを探し始める。
まずは翌日に茂庭台にあるマンションを見に行くことを不動産屋と約束した。
妻と子供たちはそのまま八木山にお世話になり、私は街中に居たほうが諸々の用事を済ませるために便利と考え東横ホテル広瀬通店に宿泊。
仙台駅の地下街で夕食の買い物をしたが、仙台駅も相当損壊していて出入り口が限られていた。
4月11日(月曜日) 移住先決定
朝に妻と合流し二人で茂庭台に向かった。
茂庭台は閑静なところだったが店があまりなく、冬は結構雪が降るらしく交通の便も悪いため他の物件をあたることにした。
できるだけ南相馬への移動がしやすい仙台市南部を候補とし長町、富沢の不動産屋に連絡。
最初に行った富沢の不動産屋で間取りは2LDKだが100平方メートル近くあるメゾネットタイプの物件をみつけ早速下見に行った。
部屋はきれいに管理されていて窓からすぐ近くに西多賀小学校が見えた。
また山田インターチェンジまで車で5分程の距離なので通勤の便宜からもここに移住することに決定した。
4月12日(火曜日) 南相馬市の自宅へ
1ヶ月ぶりの小高の自宅に向かう。
妻と二人で妻の実家の八木山から長町インター~東部道路経由で移動。
若林ジャンクション周辺から津波被害の壮絶な景色が目に入り、しばらく唖然としながら運転していた。
山元インターチェンジから出て国道6号線に入る。
道路はあちこち亀裂が入り起伏に富んだちょっとしたオフロードのような状態で、南相馬市鹿島地区では道路の傍まで流された数十隻の漁船が田畑に散乱していた。
南相馬市小高区は警戒区域のため警備が厳しく、出入りを許可してもらっていた知人の産廃業者の車に同乗させてもらい正午頃に自宅に到着した。
自宅内はCDラックが倒れたぐらいでほとんど地震による被害はなく、3月11日の状態そのままだった。
冷蔵庫内の食糧や生ごみを物置に詰め込み、現金などの貴重品やランドセルなど子供の日用品を中心に持ち出す。
病院内も震災直後のままだったが、小高区内は警戒区域になったのと同時に電気が遮断されていて電子カルテや医療機器などの動作を確認することはできなかった。
1時間ぐらいで用を済ませ原町区の両親宅に行く。
その後W病院に行き理事長と面会し次週からお手伝いをすることに決定した。
家族となるべくいっしょに過ごしたいことと被曝時間をできるだけ短くするため、泊まり込みで南相馬に滞在することを避け避難先の仙台から通うことにし隔日で診療することにした。
4月13日(水曜日) 移住先の契約を済ます。
富沢の物件の契約を済ませ翌日に入居を始めることにした。
ようやく新たな出発の目途がたち一安心。
金沢文庫宅に置いたままの衣類などは新幹線が再開する4月下旬に取りに行き配送することにした。
この日は作並温泉の岩松旅館に宿泊。
4月14日(木曜日) 医局に挨拶。
鈎取のケーズデンキと西多賀のニトリで家電や家財道具を購入し富沢で暮らすための準備をする。
その後正午頃に医局を訪ねた。
O先生が応対して下さりこれまでの経緯の概要や今後の方針を報告した。
教授とも面会させてもらい、当面はW病院のお手伝いをすることを了承していただいた。
妻は長男、次男を西多賀小学校に編入させるため学校に連絡を入れ翌日手続きに行くことになった。
4月15日(金曜日) 職員休業手当
妻は西多賀小学校に編入手続に行き、私は職員の休業手当を申請するため仙台駅東にあるハローワークに向かう。
署内は大勢の人たちで賑わっていたが求職の人がほとんどで、事業所向けの手続きで待っている人はあまりいなく数分待つだけで手続きができた。
記載しなければならないたくさんの書類を受け取ったが、その場では処理できそうになかったので家に戻って書いてから明日あらためて提出することにした。
4月18日(月曜日) 長男、次男が西多賀小学校に登校開始
ネットで調べたら仙台市の小学校の始業日は被災状況によりばらばらで西多賀小学校は4月11日から始業していた。
この学校も地震による被害がかなりひどく、校舎の半分が使用できず5年生と6年生は体育館で就学しなければならなかった。
小高に定住したときから転校とは無縁と思っていたが、まさか子供たちも震災前には転校する羽目になるとは思ってもいなかったはずで気の毒だった。
4月19日(火曜日)
翌日の初出勤に備えてこの日は原町の両親宅に泊まることにして南相馬に移動した。
両親とお互いの避難経緯や南相馬市内の状況などを話した。
4月20日(水曜日) W病院で勤務を開始
久々の仕事だった。
医療行為そのものに支障はなかったが、紙カルテを使用するのが5年ぶりだったので漢字を結構忘れていることに気付く。
予定の午後3時に診療が終わり帰路途中に南相馬市役所に行き被災証明書を交付してもらう。
通勤時間は往復で少なく見積もっても4時間は要するので相当疲れる。
隔日の勤務にしてよかったと思った。
仙台に戻る途中の国道6号線で、マスクを付けた子供たちを乗せた大型バスと次々とすれ違う。
南相馬の避難区域から対象外の地域での就学を強いられている子供達を送迎している下校途中のバスだった。
フロントガラスに貼り付けられた表示をすれ違いざまに注意深く観察すると原町第一小学校、原町第一中学校、原町高校といった私の母校の表札もみられとても切ない気持ちになった。
以上、震災からおよそ1か月の経緯ですが、いろいろなことがありすぎて今から思うととても長く感じます。
避難生活というのは何をする訳でなくとも相当疲れました。
引っ越しとは異なり衣類や日用品をはじめ、電化製品や家具を一から揃えるのは相当の労力を要することを実感しました。
子供たちの学校や幼稚園の編入手続きや職員の休業手当手続きも精神的にかなり疲労しました。
今後どうするかは原発事故の行方次第ですが、私個人は南相馬市小高区で生活を再開することは大変困難と思っています。
行政は、除染という行為をして帰す方針でいるようですが、原発事故が完全に落ち着かない状態で公共施設をはじめ、山林・河川・農地やそして住宅すべての放射線量を恒久的に低濃度に維持するのは物理的、経済的に不可能ではないでしょうか。
それでうまくいくのなら、すべてのエネルギー源、例えば自動車の動力も原子力で賄えることでしょう。
自宅に帰れるなら帰りたいですが、被曝を気にして不安を抱いたままの不健全な生活を強いられるならば、新たな人生設計を立て直したいというのが私の現時点での気持ちです。
(平成24年に東北大学整形外科の同門会雑誌に投稿した内容です)